田端は坂の多い町です。
大正3年、田端に越してきたばかりの、当時まだ東京帝国大学の学生であった芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)が、友人の井川恭に宛てた手紙(大正3.11.30)で、
「たゞ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときは一寸学校が休みたくなる」
と書いて送るほど。
(一高時代の芥川龍之介)
芥川が田端に引っ越してきた頃の田端駅は、けっこう長い間工事中で、現在の田端駅の場所とは違うところ(現在の田端駅より北西、京浜東北線と山手線が分岐する辺り)にあったそうなので、芥川がいっている「可成急な坂」がどこの坂なのか、今はちょっとわかりません。
ただ、この町に坂が多いのは、今も変わらず。
例えば、JR田端駅北口を出て、左手「田端文士村記念館」の脇には「江戸坂」。
北区教育委員会の看板によると、田端の台地から下谷浅草方面に出る坂なので、「江戸坂」といわれているようです。
田端には、この看板にも書かれている板谷波山(明治5.3.3~昭和38.10.10 陶芸家)が住みはじめたのきっかけに、数多くの芸術家・文士が住むようになりました。
坂道を上って、町を散策していると、随所に文士たちの跡があります。
といっても、看板などが出ているところ、今や何にもないところなどなど、現状はさまざま。
何もないところは、「ああ、ここに○○が住んでいたんだなあ。」と、すっかり跡形もないところに思いを馳せ、往時を想像してみるしかありません。
例えばこの辺り。
田端文士村記念館の「田端散策マップ」を片手に歩いてみると、江戸坂を上りきって、右手交番の前の道を渡ってすぐのところ(写真右手辺り)に、二葉亭四迷(元治1.2.28(陰暦)~明治42.5.10 小説家・翻訳家)が、住んでいたことがあるそうです。
二葉亭は、言文一致体で小説『浮雲』(第一編 明治20.6.20 第二編 明治21.2.13 金港堂 第三編 明治23.7~8 『都の花』)を書くことに挑んだ、近代小説の開祖とされている作家ですが、明治37年9月から、およそ半年の間、ここ田端475番地(当時)住んでいたそうです。
(二葉亭四迷)
二葉亭居住跡からほんの数メートル先。田端小学校の向かい辺り(写真左手)には、冒険小説家の押川春浪(明治9.3.21~大正3.11.16 小説家)。
押川春浪は、日本のSF小説の草分けといわれた『海島冒険奇譚・海底軍艦』(明治33 文武社)などを著した作家ですが、その最晩年、大正3年に田端494番地(当時)に転入。同年この地で没しています。
押川春浪居住跡脇の道を、動坂・童橋方面に進んでいくと細い路地があり、この辺りが、女性活動家の平塚らいてう(明治19.2.10~昭和46.5.24 社会運動家)と、プロレタリア文学者の中野重治(明治35.1.25~昭和54.8.24 小説家・社会運動家・政治家)の居住跡。
ここも、何が残っているというわけではありませんが、民家や古びたアパートが密集した、ひっそりとした路地裏といった景色に、何だかいかにも社会運動家たちが、人目を忍んで、こっそり隠れ住んでいたかのような風情を感じます。
今はもう何もないけれど、土地の持つ記憶のようなものを、感じてしまいます。
(平塚らいてう)
らいてうが、ここ田端445番地(当時)に引っ越してきたのが大正7年。翌8年に、市川房枝(明治26.5.15~昭和56.2.11 社会運動家・政治家)らと、新婦人協会を結成しました。
(中野重治)
中野重治は、昭和5年に田端445番地(当時)に転入。
中野が、かの治安維持法違反で逮捕されたのも、ここに住んでいた頃(昭和7年)。田端駅でのことだったそうです。
らいてう・中野居住跡の1本北側の道を行くと、「童橋公園」という、区立の児童公園があります。
何のことはない、小さな児童公園ですが、ここには詩人室生犀星(明治22.8.1~昭和37.3.26 詩人・小説家)の家で使われていた、庭石が置いてあります。
ころんとしたかぼちゃのような、かわいらしい蹲。
いわれなければわからないほど、無造作に置いてあります。
説明書きの看板もあります。(キズだらけでよく読めませんがw。)
どれだかちょっと判然とはしませんが、どうやらここには、犀星の庭にあった苔も植わっているようです。
(室生犀星)
犀星は田端内で、なんと5回も転居を繰り返していますが、自然を愛する犀星は庭上手で、友人の芥川龍之介などに、庭作りの指南をしたりしていたそうです。
芥川の『野人生計事』(『サンデー毎日』大正13.1.6、13)の「二、室生犀星」には、
『室生はまた、陶器の外にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑ
たり、叡山苔を匍はせたり、池を掘つたり、葡萄棚を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を払つてゐる借家の庭に入らざる数寄を凝らしてゐるのである。
或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絶えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の外に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。
「ああ、あれか、あれはあすこのつくばいへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い管をさして・・・・・・」』
という記述があり、田端の借家で、質素な中にも数寄を凝らした風流な暮らしをしていたことが伺えます。
参考文献
『芥川龍之介全集 第十巻』芥川龍之介 1996.8.8 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十七巻』芥川龍之介 1997.3.10 岩波書店
「田端散策マップ」『田端文士村記念館パンフレット』田端文士村記念館
『田端文士芸術家村しおり』田端文士村記念館
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