文学のお散歩

東京近郊・近代文学を中心に作家・作品ゆかりの地をご紹介します。

回向院~芥川龍之介生育の地その3

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両国にある回向院は、江戸時代に起きた明暦の大火(振袖火事)で亡くなった方々を、供養するために開かれた浄土宗のお寺です。

     

江戸市街の6割が焼失し、10万人もの命が失われた明暦の大火。亡くなった方々ほとんどの身元や身寄りがわからなくなってしまっていたので、当時の将軍徳川家綱(寛永18.8.3~延宝8.5.8 第4代将軍)が、隅田川の東岸に万人塚を設け、大法要を行わせたのがこのお寺のはじまり。「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」ことを理念とする当院には、明暦の大火をはじめ、安政の大地震関東大震災、その他飢饉や水難事故等、さまざまな災害で亡くなった方々の供養塔が建っています。「人・動物に関わらず」ということから、動物の供養塔の多いのも目にするところです。

     

参道を入ってすぐ、左にあるのが「力塚」。

     

江戸後期になると、回向院は勧進相撲興行の中心地としても栄えました。

この「力塚」は、歴代相撲年寄の慰霊のために作られたもので、今でもお相撲さんたちが力を授かるように祈願に来るのだそうです。

     

(『江戸切絵図 本所両国』国立国会図書館デジタルコレクション)

また回向院では、昔から相撲の他にも様々な興行が行われており、回向院の近くで育った芥川龍之介は、そのエッセイ「追憶」(大正15.4.1~昭和2.2.1 『文藝春秋』)に、

 

僕は当時回向院の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇、鬼の首、何とか云ふ西洋人が非常に高い棹を上からとんぼを切つて落ちて見せるもの、ーー数えたててゐれば際限はない。

 

と述べており、明治時代の回向院境内の賑やかな様子を窺うことができます。

                         (5歳頃の芥川) https://www.ndl.go.jp/portrait/img/portrait/0224_3.jpg

masapn2.hatenablog.jp

幼い芥川が通っていた江東幼稚園、江東尋常小学校もこの回向院に隣接する地にありました。江東小学校はのち移転しますが、移転後の地にできたのが初代国技館辰野金吾(嘉永7.10.13(陰暦)~大正8.3.25 建築家・工学博士)らの手掛ける日本初の鉄筋ドーム型の建物は「大鉄傘」とも呼ばれ、明治42年から昭和21年に蔵前に国技館が移るまで、相撲の常設館として使われてきました。

     

(初代国技館)
幼稚園は、現在は芥川の通った小学校付属の幼稚園ではありませんが、回向院付属の「両国幼稚園」があります。

     

また回向院裏手にはかつて、「江東義塾」という私塾がありましたが、これは江東幼稚園、江東尋常小学校とは別物。ですが、明治19年から1年間、実はここで夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)が教鞭をとっていた時期がありました。漱石はのち、芥川龍之介が小説の師と仰ぐ人物ですが、芥川が生まれる5年前に、こんなに近いところで漱石が教鞭をとっていたなんて、師弟の不思議な縁を感じてしまいます。

     

https://www.ndl.go.jp/portrait/img/portrait/0307_2.jpg

(夏目漱石)

回向院は墓所も、やんちゃ盛りの幼少期の芥川の格好の遊び場だったようで、「本所両国」(昭和2.5.6~22『東京日日新聞(夕刊)』)には、

 

僕は僕の友達と一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。

 

とあります。石塔を倒すなんて・・・どれだけ怪力の坊やだったのかww真偽のほどはともかく、お友達と活発に遊び回っていたことが窺えます。

 

回向院の墓所には、竹本義太夫(慶安4~正徳4.9.10 浄瑠璃太夫)の墓や、

     

岩瀬(山東)京伝( 宝暦11.8.15~文化13.9.7 戯作者・浮世絵師)・京山(明和6.6.15~明和5.9.24 戯作者)兄弟の墓。

     

加藤千蔭(享保20.3.9~文化5.9.2 国学者歌人・書家)のなど、文学・芸能史に名を残す人々の墓があります。

     

そしてこの墓所で、いちばん目を惹くお墓といえば、鼠小僧治郎吉(寛政9~天保3.8.19 盗賊)のお墓。

     

大名屋敷だけを狙い、人を疵つけることがなかったため義賊とも称される、天下の大盗賊鼠小僧のお墓です。

     

鼠小僧の墓石は、長年捕縛されなかった運にあやかってお守りにするため、昔から石を削って持っていく人が多かったらしく、墓石自体が削られないよう、削るための石が用意されています。墓石を削り取っていく風習は、もうすでに芥川の時代からあったようで、先の「本所両国」には、

 

鼠小僧治郎吉太夫の墓は建札も示してゐる通り、震災の火事にもほろびなかつた。赤い提灯や蠟燭や教覚速善居士の額も大体昔の通りである。尤も今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた、小さい紙もはりつけてある。

 

と書いてあります。

ここ回向院を遊び場にして育った芥川龍之介は、のち小説「鼠小僧治郎吉」(大正9.1.1『中央公論』)を書き、滝沢馬琴(明和4.6.9~嘉永1.11.6 読本作者)を主人公にした「戯作三昧(大正6.10.20~11.4『大阪毎日新聞(夕刊)』)でも、鼠小僧治郎吉を話題にしています。

 

鼠小僧治郎吉太夫は、今年五月の上旬に召捕られて、八月の中旬に獄門になつた。評判の高い大賊である。それが大名屋敷へばかり忍び込んで、盗んだ金は窮民へ施したと云ふ所から、当時は義賊と云ふ妙な名前が、一般にこの盗人の代名詞になつて、どこでも盛に持て囃されゐた。

「何しろ先生、盗みにはいつた御大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分だと云ふのだから驚きます。盗人ぢやございますが、中々唯の人間に出来る事ぢやございません。」

 

戯作三昧/一塊の土改版

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と、ここでひとつ不思議な点があります。鼠小僧の没年月日です。一般的な歴史書・歴史年表などによると、「天保三年八月十九日」とあるのですが、「戯作三昧」の舞台は「天保二年九月」の江戸。その「五月の上旬に召捕られて、八月の中旬に獄門になつた。」ということは、「天保二年八月」に処刑されたことになるのです。

「あれ?芥川が一年間違えちゃったのかな?」と一瞬思ってしまいますが、回向院の墓石を見ると・・・

     

なんと「天保二年八月十八日」とあるではありませんか!

なぜ墓石に彫られた没年月日が、史実と異なっているのかはわかりませんが、芥川はこの墓石に刻まれた没年月日を見ているはずで、その記憶から書いたのか・・・??。

天保二年八月十八日」説が、何からきているのかはわかりません。今後調査を続けてみたいと思います。

もうひとつ、鼠小僧が処刑された小塚原にある回向院のお墓の方は、「天保三年八月十九日」となっているそうです。

なお、鼠小僧の墓石は「賭け事に勝つ」とか「運がつく」、受験生などには「するりと入れる」ということで、合格守りとして持ち帰られているのだそうです。

或日の大石内蔵之助/枯野抄

芥川龍之介 岩波書店 1991年02月
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「鼠小僧治郎吉」「戯作三昧」所収

 

回向院

東京都墨田区両国2-8-10

☎0336347776

https://ekoin.or.jp

 

参考文献

芥川龍之介全集 第三巻』芥川龍之介 1996.1.10 岩波書店

芥川龍之介全集 第五巻』芥川龍之介 1996.3.8 岩波書店

芥川龍之介全集 第十三巻』芥川龍之介 1996.11.8 岩波書店

芥川龍之介全集 第十五巻』芥川龍之介 1997.1.8 岩波書店

芥川龍之介事典』菊地弘・久保田芳太郎・関口安義編 明治書院

芥川龍之介の顔』松本哉 1988.2.15 三省堂

『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社

『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社

 

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