芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)や谷崎潤一郎(明治19.7.24~昭和46.7.30 小説家)の眠る慈眼寺の前には、大きな都営の墓地「染井霊園」が広がっています。
染井霊園は、明治7年に開設されてた公営墓地。同時期に作られた雑司ヶ谷、青山、渋谷、谷中、亀戸などと同じ共葬墓地になります。
大きな墓地なだけあって、染井霊園にはたくさんの著名人のお墓があります。
墓地の入り口には案内板が立ててありますが、案内板の区分が見分けづらく、ひとつひとつ訪ねて歩くにはなかなか骨が折れます。
文学者を中心に入り口から回りやすい順に行くと、まずはこの案内板の立っている道沿い、少し先の左側・一種(イ)3号の手前の島に「水原秋櫻子の墓」。
水原秋櫻子(明治25.10.9~昭和56.7.17 俳人・医師)は、高浜虚子(明治7.2.22~昭和34.4.8 俳人)に師事し『ホトトギス』に新風を吹き込んだ俳人。のち窪田空穂(明治10.6.8~昭和42.4.12 歌人・国文学者)に師事し、反ホトトギスの新興俳句運動を起こすきっかけを作っていきました。
また産婦人科医でもあり、宮内省侍医療御用係として、多くの皇族の子どもを取り上げてもいます。
秋櫻子の墓から少し戻って、案内板のある所から左に進んで行くと一種(イ)5号の島に「二葉亭四迷の墓」。
「長谷川辰之助墓」と記された大きなお墓です。
二葉亭四迷(元治2.28(陰暦)~明治42.5.10 小説家・翻訳家)本名長谷川辰之助は、近代的写実文学の先駆となった小説『浮雲』(第一編 明治20.6.20 第二編 明治21.2.13 金港堂 第三編 明治23.7~8 『都の花』)を言文一致体で執筆することに挑戦。さらにツルゲーネフ(1818.11.9~1883.9.3 小説家・劇作家)の「あひびき」「めぐりあひ」などロシア文学の翻訳を手掛け、新時代の文学を志す明治の多くの作家たちに深い影響を与えました。ペンネーム「二葉亭四迷」は、「くたばって仕舞え」からきているということもよく知られているところです。
(二葉亭四迷)
二葉亭のお墓から左、巣鴨門方向に「南そめいよしの通り」を進み、一種(ロ)8号、二種(ハ)8号、二種(ハ)10号の間に挟まれた島の真ん中にあるのが「饗庭篁村の墓」。
饗庭篁村(安政2.8.15(陰暦)~11.6.20 小説家・劇評家)は、根岸派の重鎮で和漢学、俳諧に造詣が深く、小説の後、劇評に著作活動を移していきました。
饗庭篁村の墓から、墓地中央方面に少し戻り、一種(ロ)6号に入る所には「高村光雲・光太郎・智恵子の墓」。
高村光雲(嘉永5.2.18(陰暦)~昭和9.10.10 仏師・彫刻家)は、江戸時代までの木彫技術に西洋美術の手法を取り入れ、江戸彫刻の伝統を近代に繋げる写実的作品を制作し、日本美術史新時代の扉を開きました。シカゴ万博に出品された『老猿』(明治26)や、上野公園の『西郷隆盛像』(明治30)の作者として知られています。
光雲の長男高村光太郎(明治16.3.18~昭和31.4.2 彫刻家・画家・詩人)は、彫刻家・画家としてだけでなく、『道程』(大正3 抒情詩社)『智恵子抄』(昭和16 龍星閣)などの情熱的な口語自由詩を表した、近現代を代表する詩人でもあります。
(高村光太郎と智恵子)
高村智恵子(明治19.5.20~昭和13.10.5 洋画家)は、光太郎の妻。雑誌『青鞜』創刊号(明治44.9 青鞜社)の表紙絵を描くなど、新進の女性芸術家として頭角を現し、光太郎と結婚。けれども父の死、実家の破産、自身の病気、絵画制作の閉塞感等から精神を病んでいきました。光太郎の『智恵子抄』は、智恵子との恋愛時代から智恵子亡き後を詠った愛の詩集です。
一種(ロ)6号12には「土方与志の墓」。
土方与志(明治31.4.16~昭和34.6.4 演出家)は小山内薫(明治14.7.26~昭和3.12.25 劇作家・演出家)とともに、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場を開設した人物。
子爵様なだけに、実に立派な構えのお墓です。染井霊園の中でも、異彩を放っています。
築地小劇場の開設・運営費のほとんどが、土方の私財を投じる形で賄われたそうです。
巌本善治(文久3.6.15(陰暦)~昭和17.10.6 女子教育家・劇評家)は女子教育の普及に尽力し、『女学新誌』(明治17)『女学雑誌』(明治18)を創刊。明治女学校の発起人に名を連ねました。
またブラジル移民を扱う皇国移民会社にも関わり、銀座のカフヱーパウリスタの取締役にもなった人物です。
巌本の墓の隣には、妻の「若松賤子の墓」。
若松賤子(元治1.3.1(陰暦)~明治29.2.10 教育者・翻訳家)は、日本に初めて少年少女のためのキリスト教文学を伝えた人物で、バーネット(1849.11.24~1924.10.29 小説家・劇評家)の「小公子」(明治13~15 『女学雑誌』)の名訳者として知られています。
巌本夫妻の墓の隣の並びには「岡倉天心の墓」。
岡倉天心(文久2.12.26~大正2.9.2 思想家・美術評論家)は、東京美術学校(現:東京藝術大学美術学部)の開設に尽力。日本美術院を創設した、日本美術史研究の開拓者です。
(岡倉天心)
「西そめいよしの通り」を進み、第25・28代総理大臣若槻礼次郎の墓の隣の島、一種(イ)3号の側には「宮武外骨の墓」。
宮武外骨(慶応3.1.18(陰暦)~昭和30.7.28 ジャーナリスト・著作家)は、パロディーや言葉遊びを駆使しながら、政治家や官僚、マスコミ等権力の腐敗を追求。終生言論の自由を求めました。外骨の創刊した『滑稽新聞』(明治34~41)は、政治批判だけでなく下世話な世相の話題も扱い、最盛期には8万部の売り上げを誇る人気を博しました。
外骨の墓はちょっとわかりづらく、探すのに少し苦労しますが、若槻礼次郎の道を挟んで大体斜向かい辺り。案内板には載っていない、内側の小路に面した所にあります。竹の囲いを目当てに探すといいかもしれません。
最初の案内板のあった、染井の一本道から続く道まで戻り、超えて一種(ロ)10号9の並びに入ると「山田美妙の墓」。
山田美妙(慶応4.7.8(陰暦)~明治43.10.24 小説家・詩人)は、尾崎紅葉(慶応3.12.16(陰暦)~明治36.10.30 小説家)らと硯友社を結成し、日本初の文芸雑誌『我楽多文庫』(明治18.5~)を発刊。日本初の言文一致体での新聞連載小説「武蔵野」(明治20.11.~12『読売新聞』)を書き、新体詩運動にも取り組みました。
(山田美妙)
たくさんの著名人の眠る染井霊園。園内にはさすがソメイヨシノ発祥の地だけあって、桜もたくさん植えられており、墓参の人々の目を和ませています。
染井霊園
東京都豊島区駒込5-5-1
☎0339183502
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