慶応義塾大学三田図書館旧館八角塔脇の小道を入っていくと・・・(入っていいんだろうか?と、一瞬躊躇してしまうような裏道感のある所ですが・・・入っていいんですw)
何やら小高くなっている所があります。
ここは「文学の丘」(丘?っていうか、石が積まれ土がこんもり盛り上がっているだけのような・・・いや、でも丘なんですw)。慶應ゆかりの文人たちの、文学碑や石像の並んでいる丘です。
まず目に入ってくるのは、吉野秀雄(明治35.7.3~昭和42.7.13 歌人・書家)の歌碑。
図書館の 前に沈丁咲くころは 恋も試験も 苦しかりにき
群馬県高崎出身の吉野は、『福翁自伝』(福沢諭吉 明治31.7.1~32.2.16 『時事新報』)に感銘を受け、慶応義塾大学理財科予科から経済学部に進学するも、病気のため中退。独学で国文学を学び、正岡子規(慶応3.9.17(陰暦)~明治35.9.19 歌人・俳人)らのアララギ派に影響を受け、写生を主とした数々の歌を残しました。
次に見えるは、久保田万太郎(明治22.11.7~昭和38.5.6 小説家・俳人)の句碑。
小山内先生をおもふ しぐるゝや 大講堂の 赤れんが
(久保田万太郎)
慶應義塾大学文学科出身の久保田万太郎は、小説、戯曲、俳句など多数の作品を残したほか、文学科予科では作文の講師も勤めました。晩年にはその著作権を慶應に寄託し、現在もその資金から「久保田万太郎記念講座」が開かれています。
お次は、佐藤春夫(明治25.4.9~昭和39.5.6 詩人・小説家)の詩碑。
さまよひ来れば秋草の ひとつ残りて咲にけり おもかげ見えてなつかしく 手折ればくるし花散りぬ
佐藤春夫も慶應義塾大学文学科に進み、永井荷風(明治12.12.3~昭和34.4.30 小説家)に師事しました。慶應は残念ながら中退になってしまいましたが、その後「田園の憂鬱」(大正7.2 『中外』)や『殉情詩集』(大正10.7 新潮社)などを発表し、旺盛な創作活動は続いていきました。
詩碑の前に見えるのは筆塚で、春夫愛用の万年筆が収められています。
それからいちばん奥にあるのは、朝倉文夫(明治16.3.1~昭和39.4.18 彫刻家)作の、小山内薫(明治14.7.26~昭和3.12.25 劇作家・演出家)の胸像。
(小山内薫)
ここまで見てきた吉野秀雄、久保田万太郎、佐藤春夫の三名は、皆慶應の人、三田の文人たちですが、小山内は東京帝国大学の出身。なぜここに、小山内の胸像があるのかというと、小山内は明治43年から大正12年まで、文学科講師として慶應で劇文学の授業を持っていたからです。その頃の慶應は、文化刷新の時期。永井荷風、戸川秋骨(明治3.12.18~昭和14.7.9 評論家・英文学者)、小宮豊隆(明治17.3.7~昭和41.5.3 評論家・独文学者)ら、新進気鋭の士を教授スタッフに迎えていたのですが、その中のひとりが小山内でした。
13年の長きに渡り勤めた小山内の残した文学科への影響は、多大なものがありました。
先に挙げた久保万の「しぐるゝや」の句は、小山内の授業を偲んで詠まれたものです。
その縁で慶應の図書館には、小山内の近代演劇関係の旧蔵書「小山内文庫」も収められています。
この胸像は元々、小山内の友人門弟たちによって作られたもので、最初は歌舞伎座売店前に設置されていましたが、本来歌舞伎の人ではない小山内の胸像を置くにはふさわしくないとして協議の末、縁のある三田山上に置かれることになったのだそうです。
小山内が創建した新劇運動の拠点「築地小劇場」は、慶應義塾の大講堂での講演が、旗揚げの発端となりました。
東京都港区三田2-15-45
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