鎌倉長谷にある甘縄神明神社。
和銅3年に行基が草創し、豪族染谷太郎時忠が創建したといわれる、鎌倉最古の神社です。
天照大御神、伊邪那岐尊、倉稲魂命、武甕槌命、菅原道真公を祀り、源頼朝が相模守として下向したさいに参詣し、八幡太郎義家を授かったことから、源家によって篤く崇敬された神社です。
同じ境内には秋葉神社。
五所神社。
万葉の歌碑などもあります。
鎌倉の山を背景にして建つこの神社は、川端康成(明治32.6.14~昭和47.4.16 小説家)の「山の音」(昭和24.9 『改造文藝』)の舞台となった場所でもあります。
鎌倉のいわゆる谷の奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞こえるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
音はやんだ。
音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒気がした。
風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考えたつもりだったが、そんな音などしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞こえていた。
魔が通りかかって山を鳴らしていったかのようであった。
急な勾配なのが、水気をふくんだ夜色のために、山の前面は暗い壁のように立って見えた。信吾の家の庭におさまるほどの小山だから、壁と言っても、卵形を半分に切って立てたように見える。
その横やうしろにも小山があるが、鳴ったのは信吾の家の裏山らしかった。
頂上の木々のあいだから、星がいくつか透けて見えた。(「山の音」二)
ここを訪れた日はとても風が強く、山の木々のざわめきが凄くて、信吾の聞いた「山の音」はこんなだったか、いやいや「地鳴り」といっているから、もっともっと深く低い音だったかと、想像を膨らまさせられました。
山腹にある境内からは、由比ヶ浜の海岸まで見渡せます。
海の音も、山の音も聞こえる甘縄神明神社の目の前は、川端康成邸。
「川端康成記念会」となっていますが、文学館などではなく、通常は非公開です。
でも、年に何度か特別公開される日があって、先日運良く抽選に当たって、見学することができました。
応募者数は、なんと定員の6倍!
例年だと、川端康成記念会と鎌倉文学館の共催で企画されていたらしいのですが、現在は鎌倉文学館が長期休館中のため、今回は鎌倉芸術館との共催で行われました。
邸宅にはまだご遺族がお住いのため、家屋も庭も門前も、全て撮影はNG。
ちょっと残念でしたが、セキュリティーのためとあらば、仕方がないですね。
大正時代に建てられた木造家屋ですが、元は材木問屋の主が建てた家だったそうで、選り抜きの上質な材木が使われていて、あの関東大震災でも、瓦ひとつ落ちないほど堅牢な作りになっていたそうです。
川端がこの家に転居してきたのは、昭和21年10月。この家が終の棲家となりました。
今回の見学会では、家の中には入れませんでしたが、開け放たれた縁側から臨む邸内は、日本家屋の陰翳が美しく、黒田辰秋(明治37.9.21~昭和57.6.4 漆芸家・木工家)作による飾り棚や、仏間には川端の愛した「聖徳太子立像」なども見ることができました。
芝生貼りの庭には、松や椿、山茶花など、川端好みの花木が配置良く植えられ、特に印象的だったのは、庭の中央に植えられた、葱坊主のような北山杉と3本の石柱。
北山杉は川端の小説「古都」(昭和36.18.8~37.1.23 『朝日新聞』)にも描かれた、川端お気に入りの木。石柱はなんでも、朝鮮船の碇だったのではないかといわれているらしい、珍しいオブジェのような感じです。
邸内を散策しながら、「山の音」の尾形信吾一家の暮らしを想像してみたり、それを執筆する川端康成の姿を想像してみたり、実在の舞台を目にすると、登場人物たちが生き生きと、眼前に蘇ってくるような感じがしました。
こちらは「山の音」作中に描かれた、甘縄神社の御輿小屋。
作中では台風でトタン屋根が全部吹き飛ばされ、信吾の家の屋根や庭にも7、8枚落ちていたとありましたが、現在の御輿小屋は真新しいきれいな御輿小屋。もうとても、屋根が飛びそうな風情ではありません。
お御輿も、居心地よさそうに鎮座されていました。
甘縄神明神社
神奈川県鎌倉市長谷1丁目-12-1
☎0476223347(八雲神社)
参考文献
『川端康成集 新潮日本文学15』 川端康成 1968.12.12 新潮社
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