「メイゾン鴻乃巣創業の地」

日本橋小網町、鎧橋のたもとにある「メイゾン鴻乃巣創業の地」。

「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年にこの地で開業した西洋料理店です。
創業者の奥田駒蔵(明治15~大正14 料理人・飲食店経営者)は、横浜のホテルで西洋料理の修行をし、洋行の経験もあるという料理人でした。
看板には「西洋料理 鴻乃巣 KONOSU、FIRST CLASS BAR」。
「鴻乃巣」というのは、駒蔵の故郷京都にある「鴻ノ巣山」と呼ばれた丘にちなんでいるのだそうです。(注:埼玉県の鴻ノ巣説もあるようですが京都のようです。)
「メイゾン鴻乃巣」は当時、正装しなくても普段着で入店できる数少ないフランス料理店でバーも兼ねていたため、文士・芸術家たちの格好の溜まり場でもありました。
(北原白秋)
常連客には北原白秋(明治18.1.25~昭和17.11.2 詩人・歌人)、木下杢太郎(明治18.8.1~昭和20.10.15 詩人・劇作家)、吉井勇(明治19.10.8~昭和35.11.19 歌人・劇作家)、高村光太郎(明治16.3.18~31.4.2 彫刻家・画家・詩人)、上田敏(明治7.10.30~大正5.7.9 詩人・英文学者)、永井荷風(明治12.12.3~昭和34.4.30 小説家)、志賀直哉(明治16.2.10~昭和46.10.21 小説家)、武者小路実篤(明治18.5.12~昭和51.4.9 小説家)、谷崎潤一郎(明治19.7.24~昭和40.7.30 小説家)などなど、『スバル』『白樺』『三田文学』『新思潮』など浪漫派・耽美派系の文士·芸術家たちが多く、ここで「パンの会」の集いが開かれていたことでも知られています。
「パンの会」とは、先にあげた浪漫派・耽美派系文士・芸術家たちが、日本にもフランスのように芸術家が集うカフェのような場が必要だとし、隅田川をセーヌ川に見立て、河畔の西洋料理屋で文芸談議に花を咲かせていた会のことです。「パンの会」の会場は、両国、小伝馬町、深川の料理屋、そして小網町の「メイゾン鴻乃巣」などが選ばれていました。
(永井荷風)
「メイゾン鴻乃巣」の三間間口の一階は西洋風のバー、二階は畳敷きの部屋で窓からは日本橋川が望め、魚河岸などに行き交う小舟が浮かび、水鳥が飛び交い、江戸橋あたりには江戸の面影を残す列蔵が広がっていたそうです。
里見弴(明治21,7,14~昭和58.1.21 小説家)の『怡吾庵酔語』の「化学的変化」(昭和44,11~45,12『中央公論』)によると、二階の窓からは「あっちこっちの灯火がチラチラと水に映」り、「ヴェニスの気分」を感じられる夜景が見えたとあり、西洋の新しい気風と江戸趣味が綯交ぜとなった景色が、浪漫文士の詩情をそそるものだったことがうかがわれます。
(高村光太郎)
高村光太郎は、連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」(昭和22.7.1『展望』)で、当時を回想して、
鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら
私はどこ吹く風かといふやうに酔つてゐる。
酔つてゐるやうにのんでゐる。 (前後略)
と詠み、また木下杢太郎は「『鴻の(ママ)巣』の主人へ」として、
冬の夜の煖爐の
湯のたぎる静けさ。
ぽつと、やや顔に出たるほてりの
幻覚か、空耳かしら、
該里酒玻璃杯のまだ残る酒を見入れば
ほのかにも人の声する。
ほのかにも人のすすり泣く。
(中略)
幕あけて窓から見れば、
星の夜の小網町河岸
舟一つ・・・・・・かろき水音。
「該里酒」(明治44.1『昴』)という詩を詠んでいます。
「該里酒」とはシェリー酒のことで、当時はまだ扱っている店が少なく、ずいぶんハイカラなお酒だったようです。また、「メイゾン鴻乃巣」の名物酒には、比重の異なる五種類の酒を重ねて作る「五色の酒」というのもあり、先の里見のエッセイによると「ちょっと見ると。手妻使いの仕業みたい」で、「ペパーミントの青、クラレットの赤、キュラソーの黄、・・・・・・」がきらめき、当時青踏社に所属していた尾竹紅吉(明治26.4.20~41.9.22 画家・婦人運動家)が口にしたことからも話題になっていたようです(注:五色の酒事件。当時まだ女性の飲酒は世間的にタブーでした)。
「メイゾン鴻乃巣」はその風情と料理とお酒とが、浪漫派・耽美派文士・芸術家の気風にあい、彼らの文芸の発信基地となっていきました。
「メイゾン鴻乃巣」は大正3年頃まで、小網町鎧橋たもとで営業を続けていましたが、その後大正4年頃、日本橋川対岸の木原店・食傷新道へ移転しています。

二件目の「メイゾン鴻乃巣」は、一階は庇のような狭いバー、煉瓦のあらわに出た壁が、地下室を思わせるような作りだったのだそうです。一方二階の食堂は広く、小網町時代よりもさらに、さまざまな集会に利用されるようになっていきました。
谷崎潤一郎が発起人となり開催された芥川龍之介(明治24.3.1~昭和2.7.24 小説家)の処女短編集『羅生門』の出版記念祝賀会が開かれたのも、この二件目の「メイゾン鴻乃巣」。新生「メイゾン鴻乃巣」で開かれた新星芥川龍之介の『羅生門』祝賀会は、文壇に新時代が到来したことを、世に華やかに伝えるものになりました。
(芥川龍之介)
「メイゾン鴻乃巣」はその後、大正九年の末ごろに京橋南伝馬町二丁目に再移転。ここでは本格的なフランス料理店「鴻乃巣」として営業しましたが、関東大震災で倒壊。大正14年には駒蔵が急逝し、あえなく閉店となってしまいました。

初代「メイゾン鴻乃巣」のあったそばの「鎧橋」は、架橋されたのが明治5年。
もとは「鎧の渡し」があったそうです。

「鎧橋」からほど近い蛎殻町~南茅場町に住んでいた幼少期の谷崎潤一郎は、まだ電車も自動車もない時代、人力車に轢かれないように気を付けながら、ばあやとこの橋を渡っていたのだそうです。
メイゾン鴻乃巣創業の地
東京都中央区日本橋小網町9-9
参考文献
『怡吾庵酔語』里見弴 1972.2.20 中央公論社
『詩稿「暗愚小伝」』高村光太郎 2006.3.20 二玄社
『木下杢太郎全集 第一巻』木下杢太郎 1981.5.18 岩波書店
『幼少時代』谷崎潤一郎 1998.4.16 岩波書店
ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました。






