築地、聖路加国際病院の北側辺りに「芥川龍之介生誕の地」があります。
芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)は明治25年3月1日、新原敏三(嘉永3.9.6(陰暦)~大正8.3.16 耕牧舎経営業)ふく(万延元.9.8(陰暦)~明治35.11.28)の長男として、この地、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現:東京都中央区明石町1-25辺り)に生まれました。
父新原敏三は山口県の出身で、明治8年頃に上京。渋沢栄一(天保11.2.13(陰暦)~昭和6.11.11 実業家)の経営する箱根の牧場で働いていましたが、その才覚を買われて、明治16年からここ入船町の耕牧舎の経営を任されるようになっていました。
敏三はけっこうなやり手で、入船町以外にも、根岸、芝、四谷などに支店を増やし、後には新銭座、新宿内藤町の広大な土地を渋沢から譲り受け牧場を経営。築地精養軒、帝国ホテル、李王家に牛乳やバター等の乳製品を納めるなど、東京では有数の売上量を誇っていたのだそうです。
そんな新原家に、待望の長男として生まれた龍之介ですが、父敏三が43歳の後厄、母ふくが33歳の大厄の年の子として生まれたため、当時の風習から生後間もなく捨て子にされてしまいます。
捨て子といっても形式的なもので、拾い親は松村浅次郎(天保7.2.19(陰暦)~明治42.10.1 耕牧舎経営)という敏三の友人で仕事仲間の人物。すぐに返してもらって、ふつうに新原家で育てるというものでした。
しかし、龍之介の生後約半年の明治25年10月頃、母ふくが突然発狂してしまいます。
新原家では育児が困難になり、龍之介は、本所両国にあるふくの実家芥川家で養育されるようになります。
ふくの発狂の原因には、龍之介の6歳年上の姉はつ(明治18.6.11~24.4.5)が突然病気で亡くなってしまったこと、形式的でも長男龍之介を捨て子にしなければならなかったこと、夫敏三の女性関係などが考えられていますが、発狂とはいっても、ふくの病状はそこまで重度でもなかったらしく、現代でいえば強度のノイローゼ、あるいは産後半年ほどということから、強度の産後うつだったのではないかとも考えられます。
(龍之介を抱く母ふく)
けれども、それまで「狐憑き」などと呼ばれていた精神的病が、近代的西洋医学により「精神病」という病に認定されたばかりの頃。かつまた「狂気は遺伝する」といわれていた時代。「僕の母は狂人だつた。」と、後に「点鬼簿」(大正15.10.1 『改造』)に、衝撃的な書き出しで綴ることになった龍之介にとって、この事実は終生暗い影を落としていったことは疑いないことだったでしょう。
残念ながらふくの病状は回復することなく、明治35年、龍之介10歳の年に亡くなってしまいます。龍之介はその後、母の実家芥川家の正式な養子となりました。
さて一方、築地の芥川生誕の地には、もうひとつちょっとしたエピソードがあります。
それは、聖路加病院を挟んで反対側にある史跡です。
「浅野内匠頭邸跡」。
あの有名な、「忠臣蔵」の浅野内匠頭の上屋敷跡です。
聖路加病院を含むこの地域一帯は、お家断絶まで赤穂浅野内匠頭の、約8900坪の広大な藩邸だったのです。
実は、龍之介の養子先芥川家の所在地は本所両国。
なんとそのほど近い所に、浅野の仇敵「吉良上野介邸跡」があるんです。
芥川家は別に、浅野とも吉良とも関係があるわけではなく、あくまでも偶然なのですが、妙なめぐり合わせもあるものだなと感じます。
そんな場所に生まれ育った芥川は、後に小説「或日の大石内蔵助」(大正6.9.1『中央公論』)を書きました。
「芥川龍之介生育の地」「吉良邸跡」については、また後ほど、本所両国散歩でご紹介したいと思います。
芥川龍之介生誕の地
東京都中央区明石町1-25
参考文献
『芥川龍之介全集 第十三巻』芥川龍之介 1996.11.8 岩波書店
『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社
『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社
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