明治43年の水害を機に、本所両国から田端へ引っ越すことになった芥川家。
本所の家を釣具屋の石井さんに譲ったあと、明治43年10月から大正3年10月に田端の新居が出来るまでの約4年間、新宿に仮住まいしていた時期がありました。
その場所がここ。
現在の「四谷警察署御苑大通交番」のある辺りです。
えっ⁉なんでこんな所に⁇
ここに芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)が住んでいたの⁇
今となってはそんな驚きの声が聞こえそうな、地下鉄新宿三丁目駅の真上、靖国通り沿いの新宿2丁目という交通量も多い繁華な地です。
(一高時代の芥川龍之介)
この辺り一帯は、江戸時代内藤新宿という宿場町として栄えた所で、明治・大正時代にはその名残で「貸座敷」と呼ばれた実質的には遊郭も並んでいたような場所。ますますなぜこんな所に芥川家が仮住まいしたか不思議に思えてきますが、実は内藤新宿にはかつて、龍之介の実父新原敏三(嘉永3.9.6(陰暦)~大正8.3.16 耕牧舎経営業)が営む牧場があったのです。
敏三は渋沢栄一(天保11.2.13(陰暦)~昭和6.1.11 実業家)のもと、築地入船町で耕牧舎を営んでいましたが、なかなかの敏腕経営者で耕牧舎経営を根岸、芝、四谷、新銭座と次々に展開させ、ついにはこの内藤新宿2丁目71番の地を渋沢から譲り請け、ここで牧場を営むことになっていたのです。
それで芥川家は田端の家が出来上がるまでの間、敏三の営む新宿の牧場の一隅に仮住まいしていたというわけなのでした。
僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた。僕に当時新しかつた果物や飲料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその他にもあつたかも知れない。僕は当時新宿にあつた牧場の外の桷斗の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えてゐる。(「点鬼簿」大正15.10.1 『改造』)
住んでいたといっても、その時の龍之介は一高生。一高の寮に入っていた時期もあるので、実質龍之介が本当にここで寝起きしていたのは、約3年弱位の期間ということになります。
敏三の耕牧舎は現在交番になっている場所辺りから約7,000坪の地に広がっており、牛60頭、牛舎2棟、飼料倉庫2棟、牛乳試験場1棟、牧夫室1棟、事務室1棟を備えた近代的な牧場だったそうです。長じて作家となった龍之介は、実父敏三の耕牧舎のヨーグルトの広告文も書いています。
今ではこんなに交通量も多く、繁華な新宿の街中に牧場が広がっていたなんて想像もつきませんが、新宿追分もすぐそこ。明治時代のこの辺りは、ちょっと街道を外れればまだまだ江戸の果ての田舎町という感じの所だったのでしょう。
自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになつてゐる書斎で、静平な読書三昧に耽つてゐた。(「大川の水」大正3.4.1『心の花』)
現在では「雑木林」などどこにもない大都会新宿2丁目の交番の前に立ち、こんな所に芥川龍之介が住んでいたのかと思いを巡らすと、なんだか不思議な感じがしてきます。
参考文献
『芥川龍之介全集 第一巻』芥川龍之介 1995.11.8 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十三巻』芥川龍之介 1996.11.8 岩波書店
『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社
『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社
『芥川龍之介事典』菊地弘・久保田芳太郎・関口安義編 明治書院
「近代日本の幕開けとともに歩む酪農産業の足跡」j-milk https://www.j-milk.jp/knowledge/column/
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