江ノ電和田塚駅。鎌倉の隣の無人駅。江ノ電の中でも、特にこぢんまりとした駅です。
和田塚には、その名の通り「和田塚」があります。
「和田塚」は、鎌倉前期の建暦3年、鎌倉で起きた和田義盛の乱で、北条義時と戦って敗死した和田義盛とその一族を埋葬したお墓です。
和田一族を供養する、複数の石碑や小さな五輪塔が静かに並んでいます。
この和田塚の近くには、大正5年11月下旬から翌6年の9月まで、芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)が住んでいた場所があります。
(芥川龍之介)
芥川龍之介の家は、東京田端にありましたが、大正5年、東京帝国大学英吉利文学科を卒業後(引き続き同大学院に籍を置きましたが後除籍)、高校時代の恩師の紹介で、横須賀の海軍機関学校の英語教官となったため、通勤の便から鎌倉に転居してきていたのです。
鎌倉に着くや、芥川は友人松岡譲(明治24.9.28~昭和44.7.22 小説家)に宛て、遊びに来いとこんな書簡(大正5.12.5付)を送っています。
僕の所は和田塚の電車停車場からすぐだ 和田塚までは電車の線路を歩いてくれば来られるからその先を図にする(線路は通行禁止の札が立つてるが歩いて差し支へない)
その図とやらを引き写してみると、大体こんな風に書いてあります。
ずいぶん大雑把な地図ですが、この辺はそんなに道路事情に変化がないようで、今でもその通りに辿っていくことができます。
まず和田塚の前の道を直進し、
海岸へ向かう道と、由比ガ浜方面に進む交差点を右折。
直進していくと、だいたいこの辺にたどり着きます。
芥川は、この辺にあった「野間西洋洗濯店」の離れに間借りして、住んでいたのだそうです。
今はもう洗濯店はなく、芥川の描いた地図によると「海濱ホテル」というのが目印としてあったようですが、そのホテルも現存していません。
けれどもその辺りには、似たような名の「かいひん荘」という、瀟洒な三ッ星ホテルがあり、なんとなく当時の面影を偲ぶことができるような気がしてきます。
とても静かで長閑な海辺の住まい。芥川が初めて東京から離れて住んだ、鎌倉の住まいです。ここから芥川は、横須賀の海軍機関学校へ通っていたわけですが、10カ月後、より学校に近い、横須賀の汐入580番地に転居していきました。
なんでも引っ越し当初からすでに、早起きには辟易していたようで、久米正雄(明治24.11.23~昭和27.3.1 小説家)宛書簡(大正5.12.3付)には、
全速力で小説を書いて居る中々苦しい第一朝の早いのにはやりきれないぜ六時におきるんだから久しぶりで辞書をひいて訳を考えてゐると一高時代を思ひ出す
と書いています。
機関学校での勤務は、週12時間。辞書を引きひき授業の準備にも余念なく、おしゃべり上手だったこともあり、生徒からの授業の評判もよかったようですが、すでに作家デビューも果たしていたため、執筆活動と教職の両立は時間との戦いでもあったようです。
和田塚に住まっている間に、芥川は処女短編集『羅生門』(大正6.5.23 阿蘭陀書房)を出版しています。
また、和田塚での下宿暮らしの経験は、大正12年頃から書かれていく、「保吉物」といわれる自伝的要素のある小説群に、描かれていくことになりました。
参考文献
『芥川龍之介全集 第十巻』芥川龍之介 1996.8.8 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十一巻』芥川龍之介 1996.9.9 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十八巻』芥川龍之介 1997.4.8 岩波書店
『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社
『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社
『毎日グラフ別冊 芥川龍之介 生誕百年、そして今』1992.5.1 毎日新聞社
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