田端の高台にある芥川龍之介居住跡から東南に下っていくと、
階段状の細い小さな坂道があります。
看板をみると「上の坂」。
坂の名の由来は不詳だそうです。
近くに住んでいた芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)、香取秀真(明治7.1.1~昭和29.1.31 鋳金家・歌人)らの名前と、芥川の田端の家の庭を詠んだ歌が記されています。
坂の町田端らしい、ひっそりとした路地裏といった趣のある、階段の続く小さな坂道です。
この上の坂を下りきると、その先には芥川家のホームドクターであった下島勲(明治3.
写真向かって右側あたりの田端348番地(当時)。今は一般の住宅ですが、なんとなく医院があったような風情が、それとはなしに感じられます。
医師下島勲は空谷・空谷山人と号し、俳句や和歌をたしなむ趣味人でもあったので、芥川とは気が合ったのでしょう。ホームドクターとしてだけでなく、仲の良い友人として、終生家族ぐるみの交流があったそうです。
芥川の「田端人ーわが交友録ー」(『中央公論』大正14.3)には、「下島勲」の項があり、
「下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。又空谷山人と号し、乞食俳人井月の句を集めたる井月句集の編者なり。僕とは親子ほど違ふ年なれども、老来トルストイでも何でも読み、論戦に勇なるは敬服すべし。僕の書画を愛する心は先生に負ふ所少なからず。」
と記されています。互いに文化的刺激を受け合いながら、交友していた様子がうかがえます。芥川の田端の書斎に掲げてあった「澄江堂」の扁額を毫したのも、芥川が自殺を図った時、家族からの異変の報せに駆けつけ、蘇生術を施し、最後を看取ったのも下島でした。
(芥川龍之介)
下島医院のはす向かい343番地(当時)には、天然自笑軒跡。
天然自笑軒は、明治41年に開業した料亭で、店主の宮崎直次郎は、茶花を好み一中節(三味線に合わせて浄瑠璃を語る古曲)を嗜む趣味人。
自笑軒では、庭の植え込みや座敷の敷物に凝り、予約以外の客は取らないというこだわりの経営をしていました。
また直次郎は、芥川龍之介の養父道章と一中節仲間で、芥川家が本所から田端へ引っ越してきたのも、宮崎との縁によるものだったそうです。
龍之介はここで、大正7年2月に塚本文(明治33.7.8~昭和43.9.11)との結婚披露宴を行いました。
芥川を含めた田端文化人の集まりである「道閑会」の会場も、ここ天然自笑軒。
若槻礼次郎(慶応2.2.5(陰暦)~昭和24.11.20 政治家・第25、28代内閣総理大臣)や渋沢栄一(天保11.2.13(陰暦)~昭和6.11.11 実業家)など、政財界の人々からも贔屓にされていた店だったそうです。
自笑軒から東へ進んでいくと、左手に竹藪とまた坂道。
「与楽寺坂」という看板が出ています。
坂の名の由来は、坂の下にある与楽寺というお寺によるものということです。
右手にみえる藪は、お寺の庭の木々のようです。
田端は竹藪が多く、そのため関東大震災では被害の少ない土地だったそうですが、その後の戦災では、多くが焼けてしまい、田端が文士村であった頃の建物など、ほぼなくなっているのですが、こういった竹藪が鬱蒼と生い茂って、細い坂道に覆いかぶさるさまや、塀や石垣が迫り建つ狭い道々を歩いていると、もう何もこれといって残ってはいないのに、往時の雰囲気がよみがえるように感じられるから不思議です。
この坂を上るきると、また芥川邸に行き着くのですが、なんだか坂の上から、芥川龍之介が、愛用の龍の頭のついたステッキを振りながら、すたすたと下りてきそうな気さえしてきます。
町、道、坂の持つ記憶。
文士たちが、小説に詩、和歌、俳句、書、絵画と、様々に芸術談義を交わし、そしてそれぞれの家族、友人たちと共に日々を暮らしたその息づかいが、何はなくとも感じられる、文士たちの暮らしの気配の残る、かつての文士芸術家村の街並みです。
参考文献
『芥川龍之介全集 第十二巻』芥川龍之介 1996.10.8 岩波書店
「田端散策マップ」『田端文士村記念館パンフレット』田端文士村記念館
『田端文士芸術家村しおり』田端文士村記念館
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