薮下通りを下り切り、根津裏門坂に突き当たると左右が日本医科大学。
右手本郷通に向かって坂を登って行き、日本医大前の信号(一炉庵という和菓子屋がある所)を右折し、進んで行くと日医大同窓会橘桜会の建物の敷地内に、「夏目漱石旧居跡」があります。
ここは、夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)がイギリス留学から帰国した明治36年の3月から明治39年12月まで暮らした家があった所です。
漱石がこの地に暮らしたのは、わずか3年と10カ月でしたが、この地は漱石の作家デビューの地。あの「猫伝」こと「吾輩は猫である」(明治38.1~39.8 『ホトトギス』)が書かれた場所になります。
そのためこの旧居跡は、別名「猫の家」「我猫庵」とも呼ばれていて、「猫伝」の主人公である猫の「吾輩」と、飼い主である苦沙弥先生の住む家のモデルとなったのも、ここにあった家です。
建坪39坪ほどの日本家屋。漱石はここで、東京帝国大学と第一高等学校の講師をしながら、作家として歩み始めることとなりました。
「吾輩は猫である」を書き上げた漱石は、その後「倫敦塔」(明治38.1 『帝国文学』)「坊ちゃん」(明治39.4 『ホトトギス』付録)「草枕」(明治39.9 『新小説』)などをこの地で書き上げ、本郷西片町へと引っ越していきました。
「猫の家」らしく、猫がちょこんとお座り。
塀の上にも。
記念碑の題字は、川端康成によるものです。
そしてなんとこの家は、漱石が住むより前の明治23年10月から25年1月まで、ここからほど近い観潮楼(現:森鷗外記念館)に終の棲家を定める前の森鷗外(文久2.19(陰暦)~大正11.7.9 小説家・医師)が、仮住まいしていた家でもありました。
偶然にも、明治を代表する二大文豪が住んだ家。
すごい引力のあるトポスですね。
(森鷗外)
「猫の家」は幸い戦災を逃れ、戦後、東京都の史跡に指定されましたが、都の財政難から長い間放置され、修復と保存の声が高まるなか、愛知県犬山市の博物館明治村に移築・保存されることとなり、現在に至っています。
漱石一家が暮らしていた面影を色濃く残していたというこの家は、明治の山の手の典型的な中流住宅として、明治村で展示されています。
根津裏門坂から「猫の家」に向かう目印にもなる和菓子司「一炉庵」には、甘党の漱石も通っていたそう。
夜雨最中
漱石が好んだのは、どんなお菓子だったのでしょうか。
「猫の家」にちなんだ「猫のひとりごと」というお菓子も販売されています。
参考文献
『東京の文学風景を歩く』大島和雄 1988.4.25 風濤社
『漱石と歩く、明治の東京』広岡祐 2012.4.20 祥伝社
ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました。