隅田川河畔両国橋のやや北寄りに、江戸から明治にかけて何本もの杭が打たれていたところがあります。
「百本杭」。
水量の多い隅田川。両国橋辺りは川の湾曲が強く特に水勢が強い所であるため、それを和らげるための杭が、この辺りに何本も打たれていたのだそうです。
現在の総武線鉄橋の辺りです。
江戸の風物としてもよく知られており、歌舞伎の『十六夜清心』では冒頭に「稲瀬川百本杭の場」が出てきます。稲瀬川は鎌倉を流れる川ですが、隅田川に見立てるため「百本杭」を引いているのです。「○○川と名前は違えど『百本杭』」とくれば、観客は隅田川を連想するのが当時のおきまり事だったのだそうで、それほど「百本杭」が知れ渡っていたということがわかります。
また「百本杭」があった頃は、ここで釣りをする人も多かったようで、本所両国で育った芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)も、「大導寺信輔の半生」(大正14.1.1 『中央公論』)に、
或朝焼けの消えかかつた朝、父と彼とはいつものやうに百本杭へ散歩に行つた。百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だつた。(一 本所)
と書いています。
釣り師が多いのは多いでいいのですが、この文章の続きは
しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかつた。広い河岸には石垣の間に舟虫の動いてゐるばかりだつた。彼は父に今朝に限つて釣り師の見えぬ訣を尋ねやうとした。が、まだ口を開かぬうちに忽ちその答えを発見した。朝焼けの揺らめいた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味のからんだ乱杭の間に漂つてゐた。
とあるのです。何とも不気味な光景。「大導寺信輔の半生」はもう芥川晩年の作品といってよいのですが、若かりし頃書いた「大川の水」(大正3.4.1 『心の花』)の甘美な隅田川賛美とはまるで様子が違っています。大川端は芥川にとって少年期を過ごした所なので、記憶は同じなはずですが、「大川の水」で身投げするのは「十六夜清心」であるのに対し、「大導寺信輔の半生」では「坊主頭の死骸」です。何という隔たりでしょう。
続けてこの文章は、
――彼は未だにありありとこの朝の百本杭を覚えてゐる。三十年前の本所は感じ易い信輔の心に無数の追憶的風景画を残した。けれどもこの朝の百本杭は、――この一枚の風景画は同時に又本所の町々の投げた精神的陰影の全部だつた。
と続きます。
本所の風景、「百本杭」の風景が、「大川の水」の江戸情緒漂う甘美な風景から、この「大導寺信輔の半生」の風景に変化していったさまは、芥川の「精神的陰影」の変化であり、また近代化・工業化が進み、関東大震災で壊滅的被害を受け、江戸の夢が無残にも破れてしまった本所の「陰影」を表しているようです。芥川は「大導寺信輔の半生」の2年後に書いた「本所両国」(昭和2.5.6~22 『東京日日新聞(夕刊)』)でも、土左衛門の浮いている百本杭の風景を記しています。
さて、百本杭から陸地の方に目を移しますと、そこは「お竹倉」跡。
「お竹倉」とは江戸幕府の材木蔵のことで、隅田川から船で運ばれてきた材木を、ここに収納していたのだそうです。
(『江戸切絵図 本所絵図』国立国会図書館デジタルコレクション)
「お竹倉」は明治5年に廃止されたのだそうですが、芥川の「本所両国」によると、
「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝」にかこまれた、雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。(大溝)
とあるので明治中頃までは、「お竹倉」の雰囲気がまだまだ残っていたのでしょう。
「お竹倉」の鬱蒼とした雑木林や竹藪には、江戸時代から「本所の七不思議」と呼ばれる怪談もあり、芥川も同じく「本所両国」で
その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思ひ出さずにはゐられない程ものさびしかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてけ堀」や「片葉の蘆」はどこかこのあたりにあるものと信じない訳には行かなかつた。現に夜学へ通ふ途中「お竹倉」の向こうにばかばやしを聞き、てつきりあれは「狸ばやし」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらく小学時代の僕一人の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへかよつてゐた線路工夫の一人は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。
と記しています。
大溝に囲まれた「お竹倉」。ひっそりとした雑木林や竹藪には、明治になってもまだまだ、お化けが出てきたり狸ばやしが聞こえてきたりする江戸的雰囲気が、十分残っていたようです。
けれどもここもまた、時代の波に呑まれてしまいます。
鉄道が敷かれ厳めしい陸軍被服廠が建ち、その陸軍被服廠が赤羽に移転するため空っぽになった跡地は関東大震災の際、地域の避難所となったのですが、火災旋風に呑まれ3万8千人もの命が、ここで失われることになってしまいました。
小学生時代の芥川
少年の頃の芥川に自然の美しさを教えた遊び場、七不思議をはじめ江戸情緒が色濃く懐かしく残る「お竹倉」の変貌は、晩年の芥川の目にも心にも、どれだけ痛い景色であったことでか・・・。
両国駅
「お竹倉」のあった場所は現在の両国駅の北側、両国国技館や江戸東京博物館から旧安田庭園辺りまでの一帯です。
芥川家があった小泉町のすぐ隣。少年期の芥川の最も近しく親しんだ場所で、もっとも流転の相を感ぜずにはいられない場所でした。
旧安田庭園
安田庭園先の同愛記念病院は関東大震災後に建てられた病院で、「本所両国」が書かれた頃ちょうど建設中(現在の建物とは別)でした。「本所両国」には、
本所開館の隣にあるのは建築中の同愛病院である。高い鉄の櫓だの、何階建てかのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確に僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければ措かないものだつた。(「大川端」)
と記されています。
現在では背後にスカイツリーを臨む景色となっています。
江戸から明治、大正、昭和、平成、令和と変遷を遂げてきたこの景色。芥川が見たら何というのでしょうか。
大川の水/追憶/本所両国 | ||||
|
参考文献
『芥川龍之介全集 第一巻』芥川龍之介 1995.11.8 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十二巻』芥川龍之介 1996.10.8 岩波書店
『芥川龍之介全集 第十五巻』芥川龍之介 1997.1.8 岩波書店
『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社
『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社
開園時間 9:00~19:30 (4~9月) 9:00~18:00(10~3月)
休園日 12月29日~1月1日
ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました。