芥川龍之介が幼少期の回想を交えながら綴ったルポタージュ「本所両国」(昭和2.5.2~22『東京日日新聞(夕刊)』)は、両国停車場・両国橋からスタートし、その後「一銭蒸気」と呼ばれた小型の遊覧船に乗り、隅田川を遡上していきます。
現在の両国橋下 隅田川を行く屋形船
かつて隅田川には20以上の「渡し・渡船場」がありました。芥川が幼少の頃よく使っていたのは「富士見の渡し」で、これに乗って親戚の家などに行っていたのだそうです。
(小国政『東京風景 両国代地富士見の渡し』庁田長次郎 明治26 国立国会図書館デジタルコレクション)
けれど関東大震災以後、震災復興事業で次々と隅田川の架橋が進み、「渡し」は廃止されていきました。芥川が「本所両国」の取材で訪れたときも、もうすでに「富士見の渡し」は廃止され、ちょうど蔵前橋が架橋工事中だったようです。
「渡し」があったころは、川に浪を立てるのは「一銭蒸気」や利根川通いの外輪船くらいなものだったのだそうですが、この頃にはもう「モオター・ボート」が荒波を立て、江戸趣味など掻き消すかのごとく過ぎていくようになっていました。川の水も泥や油で汚れ、明治時代までまだまだ住んでいた⁉と信じられていた⁉「河童」も住めない川になっていました。(芥川お得意の絵は河童ですw)
「本所両国」を取材する「僕」と「O君」は、川蒸気に乗り蔵前橋、厩橋、駒形橋と新たに作られる橋の下をくぐっていきます。駒形橋は現在では誰でも「コマガタ」と濁って発音しますが本来は「コマカタ」。芥川の「本所両国」でも、
駒形は僕の小学時代には大抵「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今駒形あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或ひは「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。(乗り継ぎ「一銭蒸気」)
と記されています。流転の相は風景だけでなく、言葉にも表れているのが伝わってきます。
「僕等」一行は吾妻橋に着くと川蒸気を降り、円タク(料金1円均一のタクシー)に乗り換え柳島へ。そして鮎料理で有名だった高級料亭「橋本」の前で円タクを降ります。
(広重画帖『江戸高名会亭尽 柳嶋之図』国立国会図書館デジタルコレクション)
手前が料亭「橋本」、奥が柳島橋と「妙見堂」。
けれどこの「橋本」」も、
名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。尤もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部やあれ果てた庭なども残つてゐる。けれどもすりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒燈は少なくとも僕にははかなかつた。
と風情のない俗な景色へと変貌していました。
現在の柳島橋周辺。右側の茶色のビル辺りが「橋本」のあった所。
料亭「橋本」の向かいには、葛飾北斎(宝暦10.9.23~嘉永2.4.18? 浮世絵師)も信仰したという妙見山。こちらのお寺は今でも健在です。
「柳島」は「柳」というだけあって、昔のこの辺は柳がたくさん植えられていたのだそうです。けれど柳はとうになくなっていたらしく、「本所両国」には
――僕は中学時代に蕪村句集を読み、「君行くや柳緑に路長し」といふ句に出会つた時、この往来にあつた柳を思い出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田ドラツクや愛聖舘の並んだせゝこましいなりににぎやかな往来である。近頃私娼の多いとかいふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。
と書かれています。
現在ももちろん柳はなく、龍眼寺の入り口にだけは大柳が見事な枝をしな垂らせています。龍眼寺は元は「柳源寺」と表記していたのだそうです。
龍眼寺の別名は「萩寺」。秋にはその名の通り萩の花が咲き乱れます。
また「萩寺」は、松尾芭蕉(寛永21・天保1~元禄7.10.12 俳人)や落合直文(文久7.11.15(陰暦)~明治36.12.16)など、いくつもの句碑・歌碑がある事でも有名です。
芭蕉の句碑。
「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」
落合直文の歌碑。
「萩寺の萩おもしろし つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ」
「本所両国」の「僕等」一行も「萩寺」を見物し、落合直文の碑を見た後「亀戸天神」へと向かっていきました。
大川の水/追憶/本所両国 | ||||
|
参考文献
『芥川龍之介全集 第十五巻』芥川龍之介 1997.1.8 岩波書店
『年表作家読本 芥川龍之介』鷺只雄 1992.6.30 河出書房新社
『新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介』1983.10.20 新潮社
柳嶋妙見山法性寺
東京都墨田区業平5-7-7
☎0336253838
龍眼寺
東京都江東区亀戸3-34-2
☎0336812620
ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました。