地下鉄早稲田駅(東京メトロ東西線)2番出口を出てすぐの交差点を、市谷方面に上がっていく坂道があります。
この坂道は「夏目坂」。
そう、あの文豪、夏目漱石の「夏目」です。
この「夏目坂」のふもと、地下鉄早稲田駅出てすぐの交差点の近くで、慶応3年1月5日、夏目漱石(本名夏目金之助)が生まれました。
夏目漱石が生まれた所だから、目の前の坂道が「夏目坂」と命名された?と、ぱっと見思ってしまいますが、実はそうではありません。
もちろん夏目漱石にゆかりはあるのですが、命名したのは漱石の実父の夏目小兵衛直克。直克は当時名主として、牛込馬場下横町など11か所を治めるかなりの勢力者でした。「夏目坂」という名称は、直克が自らの家に続く坂道を、自らの姓で命名したもの。漱石の「硝子戸の中」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』大正4.1.13~2.23)の二十三には、
「父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名を付けた。」
とあります。のちに作家として名を成した息子にちなんだわけではなく、直克自らの姓にちなんで名付けています。
またこの地の町名は、「喜久井町」といいますが、これもまた直克が、夏目家の家紋から命名したもので、同じく「硝子戸の中」二十三には、
「此町は江戸と云つた昔には、多分存在していなかつたものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、夫にちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聴いたのか、又は他の者から教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。」
とあり、坂道の名も町名までも個人で付けたというのですから、直克の威勢がかなりのものだったことがうかがえます。
そんな威勢者直克の子として生まれた漱石でしたが、五男三女の末っ子、それももう晩年の子として生まれたためか、親から必ずしも喜ばれて生まれた子ではなかったらしく、漱石は生後すぐに、里子にだされてしまいます。
同じく「硝子戸の中」の二十九には、
「私は両親の晩年になつて出来た所謂末ツ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云つたとかいふ話が、今でも折々は繰り返されてゐる。
単に其為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣つてしまつた。其里といふのは、無論私の記憶に残つてゐる筈がないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしてゐた貧しい夫婦ものであつたらしい。
私は其道具屋の我楽多と一所に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐたのである。それを或晩私の姉が何かの序に其所を通り掛つた時見付けて、可哀想とでも思つたのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私は其夜どうしても寐付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られてさうである。」
とあって、何とも哀れな生い立ちです。
さらにその後も、
「私は何時頃其里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。それは慥か私の四つの歳であつたやうに思ふ。私は物心のつく八九歳迄其所で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起つたため、再び実家へ戻る様な仕儀となつた。」
とあり、幼い金之助は、大人の都合であちこちにやられ、苦い思いを重ねて育っていくことになります。その後20歳をすぎて、やっと正式に夏目家へ復籍することになりますが、生まれたときから本当の家を持たなかったという生い立ちは、漱石の心に陰を落としていきました。
夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)
漱石が生まれた家は現存しておらず、今はただこの誕生の地の碑が立っているだけ。
ここは今、定食屋の「やよい軒」になっています。
なので、文豪夏目漱石が生まれた地で、現在は誰でもご飯が食べられます。
参考文献
『漱石全集 第十二巻』夏目金之助 1994.12.20 岩波書店
『東京の文学風景を歩く』大島和雄 1988.4.25 風濤社
『文豪 東京文学案内』田村景子・田部知季・小堀洋平・吉野泰平 2022.4.30 笠間書院
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