台東区根岸二丁目。山手線の鶯谷駅を北口から出て、五分ほど歩いたところに、正岡子規(慶応3.9.17(陰暦)~明治35.9.19 俳人・歌人)の居住跡である「子規庵」があります。
四国は愛媛県松山の出身である正岡子規は、明治16年に上京したあと、都内で数回転居していますが、この根岸の子規庵が終の棲家となりました。
子規といえばわずか21歳で、当時まだ不治の病であった結核にかかり喀血。病は高じて結核菌は背骨まで侵し脊椎カリエスとなり、明治32年32歳以降は、この小さな庵で寝たきりの暮らしになります。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」(『病床六尺』1927.7.10 岩波文庫 p7 ℓ2~3)
二間しかない小さな家。そのうちの一室、六畳の間が子規の部屋です。とても小さな空間ですが、寝返りを打つのでさえ甚だしい苦痛を覚える身であった子規にとって、この小さな部屋でさえ、床でさえ広いと感じ、またここが彼の世界の全てでした。
大変な闘病生活を送っていた子規でしたが、文学への情熱は終生冷めることなく、この小さな書斎兼病床の間で、たびたび歌会(根岸短歌会)や句会を開き、短歌や俳句の革新を、命の限り進めていきました。
俳句雑誌『ホトトギス』(明治30~)の発刊や、先述した『病牀六尺』(初出「日本」明治35.5.5~9.17 日本新聞社)、『仰臥漫録』(大正7 岩波書店)なども、この六畳間で執筆されたものです。
またこの子規の居室の窓は、はじめ障子戸だったものを、寝たきりの子規でも外の様子がよく見えるように、後から硝子戸に変えたもので、
小さな庭には、この庭が外の世界の全てであった子規の目を楽しませるために、子規の介護にあたっていた妹の律(後の子規庵保存会初代理事長)が、四季折々の草花を植えていました。写生を重んじた子規は、病の床から見たこの庭の草花を、たびたび短歌や俳句に詠んでいます。
「秋海棠妹が好みの小庭哉」
辞世の句に詠まれた糸瓜も植えられています。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
数えわずか35歳で亡くなった子規の命日(9月19日)は「糸瓜忌」と呼ばれています。
現在の子規庵は、戦災で焼失してしまったものを、戦後に再建したもので、敷地内には小さなミュージアムショップもあり、子規の描いた『草花帖』や『果物帖』から取った絵葉書などを購入することもできます。
庵を出ると、向かいは子規の友人で画家・書家の中村不折(慶応2.7.10(旧暦)~昭和18.6.6
)の家。
不折は、子規が責任編集を務めていた新聞『小日本』に挿絵を描いたり、記者として子規と共に日清戦争に従軍した人物。子規は不折からもらった水彩絵の具で初めて水彩画を描いたのだそうです。
不折居住跡は、現在「書道博物館」になっています。
子規・不折宅のある小路には、少~しですがまだ柴垣や古い門構えの家も残っており、往時を偲ぶことができます。
子規庵
東京都台東区根岸2-5-11
☎0338768218(子規庵保存会)
開館時間 10:30~16:00(12:00~13:00は昼休憩)
開館日 現在不定期で、令和5年5~7月は土・日曜日となっています。
入館料 500円(中学生以下無料)
参考文献
『文豪 東京文学案内』田村景子・田部知季・小堀洋平・吉野泰平 2022.4.30 笠間書院
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